僕のラーメン屋物語10

2016年02月2日

今回は、フジヤマ55 以降の急展開について、書いていきます。

フジヤマ55の成功を受け、翌2010年、名古屋の本山という場所に

『ラーメン・つけ麺 モトヤマ55』を開店。

開店と同時に繁盛店になりました。

名古屋にも濃厚豚骨魚介のつけ麺ブームがついに来たと実感しました。

お店も4店舗に増え、スタッフも必然的に増えてきました。

業績は順調でしたが、今後を見据えそろそろ職人としてだけではなく、経営者としてのスキルアップが必要でした。

経営の本を読んだり、複数のセミナーや経営塾に通いました。

その通っていた経営塾で、当時、鉄板居酒屋とホルモン屋を経営していた、株式会社ブルームダイニングサービスの加藤さんと出会いました。

凄くバイタリティーがある経営者で、意気投合しました。

その加藤さんが飲んでいる時に 

「 澤さん! ぼく名古屋の金山駅周辺で3階建ての物件を取得したんですが、そこの1階でラーメン屋を計画しています。一緒にやりませんか? 」

そんな唐突な話をしてきました。

※この物件の2階が、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの がブリチキン の1号店になります。

金山駅と言ったら、名古屋の人にはお分かりだと思いますが、市営地下鉄、JR、私鉄、バスが乗り入れる名古屋最大のターミナルを有する街です。  

直感的に、もし金山でフジヤマ55を出店したら、すごく繁盛するのではないかと感じましたし、加藤君も同様に繁盛することに確信を持っていました。

しかし、加藤君から話をもらってから、フジヤマ55を段取りするには時間が半年しかありませんでした。

うちはラーメン職人のスタッフがいて成り立つ業態です。

ラーメン職人がいないと当然、店は運営できません。

職人は育つまでに最低でも1年以上はかかります。

それが僕の中の常識でした。

しかしやりたい、チャレンジしたいという気持ちが強く、しっかりやれる方法を考えようと思いその依頼を受けることにしました。 

昔から僕は、出来ない理由を探してあきらめるより、やれる方法を考えてチャレンジするタイプの人間だと思います。

半年間、加藤君の社員をラーメン職人に育てながら、従来のお店の仕込みオペレーションなどを見直し、平準化できるところは平準化する等、頭をフル回転して、やれる方法を考えました。

金山の物件を段取りしている間に、岐阜の 株式会社俺ん家めし 松岡さん 金沢の戦う居酒屋社長 藤田さん 2人からも、

フジヤマ55の大ファンだから是非うちにもやらせてほしいと言われました。

重なるときは、重なります。

ええい、こうなったら、同時に全員育ててやる!! 

そんな気概で しっかり職人として育て上げました。

結局2010年は年末までにフジヤマ55グループが3店舗できました。

金沢、岐阜、名古屋の金山です。

フジヤマ55金沢 オープン

カガミハラ55 オープン


カナヤマ55 オープン

どの店舗もオープンしたら、どっとお客様が押し寄せ、各地で凄まじいつけ麺ブームが起こった年になりました。

僕もオープニングはお店に入って指導をしましたが、あまりの忙しさにスタッフの調理が追い付かず、僕や前述の経営者たちもスタッフの一人として働き、毎日ヘロヘロになりながら、店舗を運営しました。

今では、いい思い出です。

結局、翌年もこのブームは続き、最終的には国内外に40店舗近くを構えるまでに急成長し現在に至っています。

成長の波にのると本当に一気に広がっていく。そんな感覚でした。

3人の申し出を、僕が

「 うちは職人業態の飲食店だから何年か修業しないと無理だよ 」

と言って断っていたら、フジヤマ55の現在の展開はなかったと思います。

頼まれ事は試され事とよく言いますが、加藤君や松岡君、藤田君の申し出を受け、チャレンジしてよかったなと思っています。

3人には、感謝をしています。

ありがとうございました。

 この出来事で学んだことは、

出来ない理由を探してあきらめるより、やれる方法を考えよう。

やりたいのに、チャレンジしないのは、一生の後悔。

チャレンジ、チャレンジ、チャレンジ!!

です。