僕のラーメン屋物語12

2016年02月2日

前回は、タイ人パートナー ナイと意気投合し、バンコクで1号店を立ち上げることになった物語をお話ししました。

本日は、波乱万丈のバンコク 立ち上げ物語の前編をお話ししたいと思います。

初めての海外出店の立ち上げ準備は ある程度の予測はしていましたが、困難の連続でした。

最初のタイ訪問から10か月、希望の物件が見つかりました。

場所は駐在の日本人が多く住んでいるバンコクのスクンビットという地区でした。

約20坪で僕らが、日本でやっている規模とほぼ同じで、希望通りの大きさでした。

物件が決まりそうだと、ナイから連絡をもらって、すぐにオープン準備に取り掛かりました。

当時、僕は世界に挑戦するに当たり一つの決め事を作りました。

それは、「現地の食材を使用して、手作りにこだわり、日本と同じ味を提供する。

日本人が食べている日本の雰囲気のお店で、日本のおもてなしのサービスで。」という決め事です。

要は、日本の本物のラーメン文化、飲食文化を伝えて行こうということです。

一言で言ってジャパニーズクオリティーのラーメン屋とは、何だろう。

まず、当然、ラーメンの味を追求していく、日本と同じ味を提供するのが、一丁目一番地です。

しかしそれだけではありません。

内装も大事です。

僕らが提供するラーメンは、現地で日常的にタイ人が食べているローカルのラーメンの5倍以上の値段です。

日本人が、イタリアン、フレンチ、高級中華に行く感覚で、タイ人は日本のラーメンを食べに行くのではないか。そう思いました。

タイ人にとっては、ちょっとしたハレの日に日本のラーメンを食べに行く、だから、日本のデザインをしっかり入れたおしゃれな内装も大切だと考えました。

日本では、絶対やらない ラーメン丼のシャンデリアや、日本の鬼瓦、店頭の大きな提灯等、タイのお客様が来ることで、自分のステータスが上がるようなお店作りをしようと思いました。

それともう一つ大切だと考えたことがあります。

それは日本のホスピタリティー精神。

おもてなし文化を伝える事です。

僕らはいわば飲食店の日本代表です。

その気概を持ち、さすが日本人がやっているラーメン屋と思っていただけるよう、現地のタイ人スタッフをしっかり教育して行こうと考えました。

日本のサービスレベルを求めるのは、凄くハードルが高いのはわかっていました。

しかし、やり遂げないと、タイの地ではフジヤマ55は定着しないのではないか。

大袈裟かもしれないですが、日本のイメージに傷がつくとも思いました。

それには、現地を任せることができる、信頼できる日本人の職人兼マネージャーが必要でした。

社内で、タイに出店するのでやりたい人間がいないか、その素質がありそうな数人に打診したところ、職人気質でちょっとはずかしがりやの当時32歳、和久田徹君がやりたいと言ってきてくれました。

★menu12

 

自分の殻をやぶる意味で、人生を変えるチャレンジしたいという申し出でした。

素晴らしいと思いました。

僕が当時思っていた和久田君の人物像は、前職が居酒屋の調理場経験者ということもあり、調理の技術はそれなりにあり、本人もその部分は自信をもっているそんな印象でした。

その反面、人と接するコミュニケーションが課題だと思っていました。

わかりやすく言ったら 職人気質 でした。

しかし、その和久田くんが、人生を変えるチャレンジがしたいと言ってきました。

こんなうれしいことはなかったし、同時にすごく責任も感じました。

彼を絶対に勝たせないといけない。そう思いました。 

絶対に成功して人生を変えるサポートをしなければならないと。

そこから、和久田君とタイ人パートナー ナイ そして僕。

3人6脚でのオープン準備が始まりました。